皆さまお久しぶりです。
11月になりましたね。
ミュンヘンの今日の昼間の気温は5度!
天気が良くて色彩が鮮やかな日でした
こちらの葉っぱは大ぶりなので、落ち葉もどっさりです(笑)
最近、知り合いの方に本をお借りする機会が多く、読書ばかりしています
漫画・小説、ここ一ヶ月で30冊ほどでしょうか。(漫画が大半)
ちょっと今回は
「少年H」という本について。
日本が戦争に入っていく時代の話。
戦時中の日本をとある少年の目線からその家族や周辺の人々の生きる過程が描かれています。
最近よく「今の日本は戦前と似た雰囲気になってきている」と言われてるため、身近に感じたくなくてもリアルに想像しまいました。安保法制の件がなければ、ここまで現実味を帯びないものとして読んでいたでしょう。
海外で生活をすることでやはり物事の捉え方が身体感覚と共に変化していると思います。
もし日本にいたら昨今の難民問題は「海の向こうの出来事だ」と思っていたでしょうが、ドイツにいることで難民の人々を目の前で見ることもあるため、とても身近な問題です。
また、海外に暮らすと各国の文化とそこに暮らしてきた人々、それぞれが持つ歴史や経験、そこから生まれた価値観や歴史観というものを話で聞いたり調べたりするようになります。教科書や本で見たり聞いたりしたものが眼前に迫ってくると自ずと当事者意識が増すようです。(私の現状から言うと心のゆとりも大きいポイントかもしれません)
実体験の有無は本当に大きいです。今まで自分には関係ないと思ってスルーしていたことの多さに気づかされます。
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ー周りの大人たちがどんどんわけのわからないことを言い出す、口をつむるようになるー(「少年H」より)
今に始まったことではないかもしれないけれど、感覚的に雰囲気として、最近少しずつ増えてきているような…。
良くいえば素直、悪くいえば馬鹿正直な人間(自分)は、新聞かネットに書かれてあることを信用してしまいがちで、一方向からの意見を聞くので精一杯になります。つまり偏見を持ちやすい。
実体験を伴わない表面的な知識の積み重ねによる芯の空洞化、空虚感が漂っている社会…そして自分。私が気づいているくらいだからほとんどの人々は気づいていながら黙っているだけなのでしょうか。
「少年H」を読みながら、ネットのなかった時代の人々の思慮深さや子供ながらに頭を働かせて生きる当時のたくましい子供たちを想像するにつけ、平和ボケし何事にも甘んじて流されて生きているなぁと自分のことが恥ずかしくなります。たくましく生きなければ、と。
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人は嫌な事から目をそむけたくなるもの。毎日毎日嫌なニュースを目にしていたら、良いニュースしか見たくなくなるでしょう。ましてや仕事や家事や勉強で忙しければ、それ以上イライラの原因になるものは排除しようとしてしまう。
そうして現実を見なくなる。
私はドイツにいるからこそ、今の日本の置かれている状況や雰囲気の怖さとに向き合えるのかもしれません。こういったことを家族と話し合えるのも。
……
本を読みながら、登場人物それぞれが抱く感情をつぶさに感じ取って理解したり感情移入できるようになれたのは「年の功だなぁ」と大人になった悦びを覚えつつ、
それと同時に
「人は心の中には口には出さないけれど思っていることが必ずあるものなのか」ということを、
この歳でやっとその事実を受け入れることができました。それは自分がそれ(口に出していない思いを理解してほしいと思っていること)を他人に望んでいることに気づいたからです。
そんな自分を知ったとき、
私自身が他人を理解してあげる姿勢を持たない限り、他人に理解などしてはもらえないだろうと思いました。そもそも「他人を理解する」ことほど難しいことはないわけで。むしろ不可能だと思った方がいい。
私はそういう(口には出さないこと、言葉の裏には別の感情がある)ことを抱くことが“裏表のある人間”になってしまいそうで嫌でした。でもそれを他人にも求めてしまっていたからこそ、これまでずっとコミュニケーションが苦手だったのだなぁと。(今でもですが…)
でもこの性格は変えようとしても変わらなかったので、一生付き合っていくしかないという諦めも生まれました。
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本を読むこと。
情景の想像力や言葉の奥行きを捉える力、行間を読む力、、それらを鍛えることによって得られる先見の明が、ネット社会により急速に退化していっているように感じます。
多くの人はもしかすると暗い将来を見ないようにすることでストレスから身を守ろうとしているのかもしれません。無意識のうちに。
これらは私ひとりが感じているだけ?周りの人々はもっと早くに気づいているものなのか?だからこそみんな楽しいことしか表に出さないのか…?
だとすると、本の中で、少年Hが戦時中と戦後の大人たちの言動に混乱し発狂してしまいそうになるように、
わけがわからなくなって自暴自棄になる子供が増えるのでは…。だからこそ自殺してしまう子供がたくさんいるのでは…。
こうしたことは今後の子供たちにも当てはまるのでは…
また大人でも悩んでいる人がいるのでは…
その一つの解決の糸口としても、「踊ること」や「身体芸術」は人々を救うものであるのではと思います。
“感じることの少なさ”は生命体として良くないはず。
硬いのか柔らかいのか、とげとげしているのかスベスベしているのか、重いのか軽いのか、曇っているのかキラキラしているのか・・・
ボタン式だった携帯から、画面をスルスル触れるだけのスマホが出てきた時、実態のない・感覚の伴わないものが増えた時の社会に不安を抱いたものですが、私の予想していた社会が現実になっているなという感じです。
“感じる”ことをしなくなると、身体のみならず心や思考までもが「奥行き」を無くします。
多様化する価値観の氾濫でそうなってしまうことは仕方のないことかもしれません。
でも放っておかず、こういうことに気づいてもらいたいがために私は自己表現のひとつである「踊り」を伝えていきたいと思います。
「わけがわからなくなっても、そこで力尽きたらいけない」
ということを子供たちに伝えなければ、と。
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この「少年H」を読んで、いろんなことを思いました。
かつて私が子供たちのバレエのレッスンの時間に、社会についてや生き方についてを語っていたように、私の口から私の言葉で、子供たちに話して聞かせたいな、とも。
子供たちには、この本を読んでほしいなぁと思います。もちろんこの本のみならずいろんな本に触れてほしいです。偏った見方を持たないように。
バレエや表現を志す人なら、様々な感性に触れることはあらゆる角度から自分自身を見つめ、感性を磨くことにきっと役立つはずです。
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さて足の怪我については
だいぶ踊れるようになってきました~
でも、
目指したい深い領域と高い次元には全く手が届かない。
でも、いま、
「どうやって行くんだったっけ…」
という感じです・・・嗚呼。
また探しに行こうと思います。
新しい歩みも、
またきっと楽しいはず。