その後の経過報告です。
ひとまず、元気にしています。
退院して自宅療養に切り替えました。
今回の事故は自宅で起きました。
「この隙間の掃除したいから、この暖房器を傾けてくれるー?」
と姉が言うので傾けたところ、その暖房器が倒れてきました。女2~3人では動かない重さでした。救急車で運ばれて、即手術。
現在、脛骨にはボルトが入っています。これを取るのは1年後だそうです。
こんなにも運が良い私が(!)、こういうことになったのには、なにか意味があると思いました。
ふと
「遠くへ行くな」
という父の想いなのかも…ということが頭に浮かびました。
父は私が2歳、姉が4歳のときに亡くなりましたが、いつも私達を見守ってくれていたと思います。
私がドイツに行くと決めたこと、
ドイツ到着の初っ端から歯医者、
そしてこの事故。
家族の協力無しでは乗り越えられないことです。
ずっと、ダンスに命を注ぎ込むことに躍起になる私は家族を蔑ろにしてきました。福岡-つくば-ドイツと物理的距離もありましたが、精神的にも家族と距離を置き、家族にも自分にも言い訳をしない自分になるためでした。独り立ちをして強くならなければと。
しかし私が骨折をして何も出来なくなってしまったことで、家族の輪に入らざるを得なくなりました。だから、こう仕向けられたのでは?と。あとは、
「悪いことは言わない、プロへの道はやめておけ。お前には向かない。」
という意味もかなと。
ダンスの実力以外にもこの世界のいろんな側面を知り、プロへ向かないことは自分でも薄々気づいていました。
でも父の想いからすると、一番は家族がバラバラになってほしくなかったのではないかと思います。
我が子が遠くへ行くことを恐れるのは、母の想いでもあったと思います。私が福岡を出た時も、ダンサーになったことも、海外へ行くことにしたことも、母は、「美彌には絶対ムリと思っていた」と言います。
私の幸せを願う様々なチカラで、このようになったのではと思っています。
昨日より自宅療養に切り替えました。
病院ではもちろん3食ともドイツ食。パンやハム、肉料理を身体が受け付けずにいました。帰宅して姉に念願のお粥を作ってもらい食べれてホッとしました。
松葉杖を使ってトイレまで歩いています。それ以外はまだ足が痛むためほとんど横になっています。術後の痛み・内出血がひくのを待ちます。
薬とストレスのせいか胃腸の調子が思わしくなくずっと気持ち悪いため、湯たんぽでお腹を温めています。
DVDを見たり、ストレッチしたり匍匐前進したりして気を紛らわせています。
というわけで元気です!
………オマケ………
姉と私。
「美彌、なにが食べたい?!」
『お粥食べたい…』
「うん!わかった!白粥??卵粥??おじやも作れるけど??」
『ノーマル…』
「うん!わかった!他には?!」
『野菜…』
「野菜…野菜…うーん…考えるね!」
(私)ガサゴソガサゴソ…
「あー美彌ちゃんやる!私がやるけん!怪我人はムリせんと!」
『…妊婦が言うセリフ?』
※姉、実は本日出産予定日。
「そーやった!すっかり忘れとった∑(゜Д゜)」←本気
「『 わはははは 』」
『…( 恐るべし姉の体力 )…』
姉の献身的な看病に支えられています。とことん世話好きな姉。こういう人が“お母さん”に向いてるっていうんでしょうね。
私は、、、やはりダンサーを目指します。