- 去年から今年への変化-

札幌公演と岡山公演、舞踊家 清水フミヒトさんの振付による作品に、ダンサーとして参加させていただきました。

 

 

2年目となる今年。
「去年よりも成長した自分を見せたい」「質が落ちたなという印象にはしたくない」という強い気持ちがありました。

 

今年の私を見ての岡山の方々からの言葉は「去年より力が抜けたね」「なにかスッと自分の中に通ったものができたように思う」というものでした。

 

去年の私…

“ゲスト”出演させていただいている身として、しっかりとその対価、いや、それ以上の仕事をしなくてはいけない、後世に少しでも良い影響を(…悪い影響を与えないようにしなくては…)、私の役割を全うしなければ、とがむしゃらにやっていました。そのときはそれが正解だと信じていました。

(去年、Water Flow 2016)

 

でもこの1年を経て

どうやらこのアプローチは自分にとっても作品にとっても良くないかもしれない、違うかもしれない、と思いました。

「全体の空気に溶け込んで
人を引き立たせる存在であれ」

…そんな言葉が頭をよぎりました。

私の周りにいる人々、というか優れたダンサーは皆、その部分が間違いなくできている。

 

 

そうしてリハーサルを重ねていると、ふとした瞬間に【表現する】という感覚が降りてきました。

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去年の10月以降の私は

11月抜釘手術、
12月、2月、3月、4月、7月(2つ)の舞台、
オーディションの合格や不合格…

駆け抜けた一年でした。

その中で生じていたのは、まわりが「イイ!」と言う瞬間と、自分の「やれた!」という感覚の差。

芸術の世界、表現の世界において、そうした感覚の差は往々にしてあるものの

これまで出せていた「空気感」が出せなくなっていたのが自分でも分かり、なぜだ?どうした?戻るべき?進むべき?分からない…といった具合でした。

自分のダメさ加減に落胆、「踊りたくない」という気持ちが充満するような日々が続き

でも素敵で刺激的なダンサーに囲まれていたお陰で乗り越えることができました。

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-自分を満たす
…満ちるまで待つ-

カラダは、容れ物です。無色透明な液体、澄んだ空気が流れ込むのを待っている。

中身が空っぽでは、人の心は動かせない。

カラダというものは
どこかがねじれていたら
それらが流れてくれない
そのねじれをとるためには
力が抜くことも必要で
力を使うことも必要で

満ちたとき、身体から出てくるなにかがある
それが私を表現というものにしてくれる
不思議だけれど、確かにある

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仲間であったり組織であったり社会であったり、その繋がりの中で生きている私たちは周りの目を意識したり理解したり枠組みについてを学ぶ必要があると思います。視点を持つ、という意味で。

そうして繋がり合っている時間と空間の中で、その温度感や流れを感じ、コントロールしたり仕掛けたり受容したりする。

それが美しく調和したとき、良い踊りに、良い作品になるような気がします。

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人生の中ではなにをやっても“ダメなとき”があります。

でもダメならダメなりに行動は起こすこと。諦めてなにもしないという方法を取っていたら、今の大きな進歩は得られなかっただろうなと思います。

トンネルを抜けたときに目前に広がる光りの心地のなんとも言えない清々しさ。それはトンネルを通過した者だけの特権。

 

神様はちょっとばかし意地悪してきますが、でもそれも楽しんでしまえば勝ちなんだろうなぁ、なんて。

そしていつも、感謝の気持ちを忘れてはいけない。

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表現する、ということ。

それは無になることであり

すべてのものと繋がり合うこと

そして

言葉を凌駕する感覚へ向かうこと。

 

素直に、貪欲に、クールに。

 

さぁ、今日もまた。