昨日は音楽家(作曲家)×ダンサーのセッションという実験的な場にお呼ばれしてきました。
音楽家の方とお話する機会はとても貴重です。
音楽とダンス。音と動き。
ときに音楽家は、
ダンサーの音の使い方に疑問を持つそうです。
-音を無視しているのでは?その音の意味、旋律は理解してる?BGMで使ってるの?踊りだけで完結してない?そのカウントのとりかたどうなの?-
(一部の意見です。全体的にそういう雰囲気がある、でもありません。)
確かにそれを言われると、感覚的に使っていることが多いです。
でも、「音に乗る」「音にはめる」、ことをあえてしないことはあります。BGMにしてしまっていることはあれどそれは意図的であったり。
「個人による/人それぞれ」で完結させてしまえばそれまでになってしまうのだけれど
そういう普段意識してない部分を、音楽家とダンサー、それぞれが互いの視点観点、共通するもの、無い感覚を持ち寄って、その上で何かを掴めたり作り上げられたらと。
近い領域にいながら避けているつもりもないけれどこのように近づく機会のなかった両者が場を共有する、面白い時間でした。
音楽家さんの提案でダンサーが動く。
「動きが見えない。もっと間延びさせないでさ、こう…こんな感じ!」と手本を見せてくれる音楽家さんの"ダンサー"感!
えっと…、ダンサーの私、負けてるやん汗(笑)(…勝ち負けではないけど)
そして音楽家さんの感じ方やこだわり方は、より原始的というか…根本的なところというか…とても理系的というか…そんなことを感じました。
音、リズム、質感、担当するタスクを一人一人変えたときに見えてくるもの。
実行、フィードバック、実行、フィードバック。意見出したり、聞いたり。
高い集中力で紡ぐ空間はあっという間に時が経ちました。
最後は短い即興(セッション)。終わった後、即興でやっているときのダンサーの心地、音楽家の心地、それぞれ聞いてみたり。
音楽家さんは作曲をされている方々だったので、話されている内容から先日観た「CODA」の坂本龍一さんの言葉が思い出されました。
帰り道が一緒になったダンサー同士で感想を言い合う時間も濃くて。
とてもいい場だったのですが、ある意味方向付けの難しさも感じたので、そこを詰めつつ、私自身も自分の中にある音楽と身体についてもっと掘り下げてみようと思いました。そしてまた主催者や音楽家の方々と共有していこうと思いました。
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音楽の世界、すでに電子音は普及しているし、機械から音をならす、間違いを起こさない機械で演奏するのは当たり前。100%ではないけれど、多くなっていることで、一般の人々が触れるのは生音ではない。
そんな時代だからこそ、人間が、人でなければ、という部分でやれることを探していきたいと思ってしまいます。
踊りもそうです。
ビデオ、ネット上に上がっている動画、いつでもどこでも見ることができる。機械を通して。
だからこそリアルタイムで、その場の臨場感で、演者と観客が感じ合うことに価値が出てくるだろうと思います。
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今日は母校である筑紫丘高校の同窓生の集まりがあり、そこには20~50代の方々がいたわけですが、「学校でダンスが必修になったことがよくわからん」という50代の大先輩に、恐れ多くも熱弁をふるってきました。「へー、ダンスってそんなに奥が深かったんだ」と言ってもらえましたが、ダンスが身近ではない方々、嗜む程度で有名どころは知っているけれど…、といった本質的なところはまったく分からない人が多いのが現状なわけで、それには少しずつでも生の人間が実際に伝えていくことしかないのかなと思いました。
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音楽家の生音に乗せて、感じて動く、その場を味わい楽しむ時間は、
音楽家・ダンサーが一番楽しんでいて、贅沢なことをしていると思います。その価値をよく知っているからこそ。
以前、あるプロのバイオリン奏者が、「(演奏している)自分が一番ダイレクトに(耳の真横、そして振動を体で感じながら)美しい音楽を聴いている」と話していて、そういう観点がなかった当時の私はそうなんだー!と思ったものです。(今回、チェロを実際に弾かせてもらいました。凄い響くんです。感激!)
自分が美しいと感じていることだからこそ人と共有したいし感じてもらいたいと思うわけで、踊る私も、私の思う美しさを共有したり調和によって観る人に心地よくなってもらいたい。
「感じること」をことさら強調している昨今の傾向を見るにつけ(今の30~50代と10~20代は全然違う気もしているが)、やはり感じることが分からなくなってしまっている人は増えているのだろうなと思います。なにせ、機械を相手に仕事をしている人、時間を過ごしている人ばかりの世の中ですから。そしてそれは今の子供たち、未来の大人たちはより顕著に二極化が生じてくるであろうことは容易に想像できますよね。
今も昔も人として大切な、「感じる」経験や「心が動く」体験、
それらを与えることができるのは生身の身体からなにかを生み出すことをしている私たちなのではと思っています。
私がバイオリン奏者の話を聞いて始めてそういう視点が生まれたように、当事者になるとか、受信する側から発信する側になることで見方や感じ方が変わるということを私自身も増やしていって、それをまた人々に教え伝えていくことを、表現者としてやっていきたいと思います。