新潟で指導者として活躍されているダンス部時代の先輩が来筑され、先輩にとって懐かしいつくばの街を周り、一緒に半日過ごした。とてもとても貴重で有意義な時間だった。
レンタカーを借り、車の中で様々な話を聞かせてもらった。
輝かしい結果の裏にある様々な葛藤や社会の荒波。先輩は物事や人物を見る視点が独特のカリスマ指導者。飾らないまっすぐさと人間への愛がある。言葉のひとつひとつ、その熱さと軽さ。
今日もまた、大きな学びを得た一日となった。
先輩の一番の目的は筑波大学舞踊研究室主催の卒業ダンス公演を観に行くことだった。(主に体育専門学群の学生が出演。場所は大学会館。参加者は300名を超える。)
大学1〜4年、大学院生、舞踊研究室生の作るたくさんの作品を見ながら感じることがあった。それを先輩を送る帰り道でまた語り合う。感想をじっくり、とまではいかずとても短い時間だったが。
約2時間強の公演。
その中でも、私の心が勝手に解放され、思わず身体がノリ出す作品があった。
先輩はどうだったのかを聞いてみると「あれが一番良かったよね」と同じ作品のことをおっしゃった。
ダンスを観るのは好みがあるもの。
だが同じことを感じていたりする。
私は自分の身体の反応は割と正直なのだと、安堵した。
…安堵…?
安堵など、そんな必要などないのに。私は私の感覚で生きていればいいのに。
そんな自分への信頼度の低さを改めて感じながら、また私は今日のことをノートに書き留める。
…………………
私は自分を人に曝けだせないことをコンプレックスに感じている。
それをある人に話したことがある。
そのときその人は
「人を信用してないんじゃない?
それより、自分を信用してあげてる?」
と私に言った。
自信、とは…?
それは「自分」への「信頼・信用」だ。
…………………
頭で考えることよりも感じることを優先にしてみた。頭でっかちのとき、自分の感覚は閉じていると思ったから。いろんな人から「考えるな、感じろ」と言われたり、「自分のために生きた方がいい」言われたのを実行に移してみたのだが、私はこれまでの蓄積もすべて捨て去るような行動をとってしまった。バカな私。中庸を生きることができない自分が歯がゆい。
やってきたことを全否定するのではなく、受け止めながら修正することが、積み重ねというもの。臭いものには蓋をする、ではダメなのだ。
…あぁ、私は日本社会の象徴じゃないか。ダメダメじゃん。
自分が楽しいと思う行動がある。あるのであれば、それは優先して続けた方が良い。それをしなくなったら自分が自分ではなくなったので、そう気づいた。
だからノートに書き留めることも、また始めた。私とっては憩いの時なのである。
…………………
とにかくエネルギー循環を鈍化させてはいけない。
私は言葉を使うことで生まれる意欲がある。
感覚として言葉になる時点では浅い。
言葉にならない感覚が出てくるまで、言葉をどんどん吐き出す必要がある。
自分にしか通用しない方法だろうけれど自分を知ることは大切だから、方法の一つとしてあると思っている。
何に気づき何を感じたのか。
文章から見える こころ。
写真に写る からだ。
舞踊作品から見える 世界。
生まれたものは生まれたもの。
…………………
表現者というのは尊い存在だと思った。
「自信がなきゃ、人前になんて出れないだろう」
という人がいる。
逆だ。
「自信を持ちたいがために人前に出て、人にものを伝える機会を利用している」
ギリギリの精神で舞台に乗ることはよくある。そのギリギリさがいい踊りに繋がることがよくある。
だがそれが私だと思い込むこともきっと良くないだろう。
今日の卒公の学生たちの光っていた瞬間は、純粋に楽しむ姿を放り込んでいた時だ。
私は何がしたいのか
何を伝えたいのか
なぜ
踊るのか・・・